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<俳句に詠まれた自然災害に関する寺田寅彦・種田山頭火>
あけましておめでとうございます。今年も宜しくお願い申し上げます。
Ⅰ【 俳句に詠まれた自然災害に関する寺田寅彦・種田山頭火 】
1.
①「天災は忘れた頃にやって来る」
②モノを怖がらなさ過ぎたり、怖がり過ぎたりするのは優しいが、正当に怖がることはなかなか難しい。
③「知らない」と「忘れた」とは根本的に違う。
④戦争は、したくなければしなくて済むかもしれないが、地震はよしてくれと言っても待ってはくれない。
⑤国家を脅かす敵として天災ほど恐ろしい敵はないはずである。
⑥科学者になるには自然を恋人としなければならない。自然はやはりその恋人にのみ真心を打ち明けるものである。 ~寺田 寅彦~
2.などの名言があります。正に①のとおり、「天災は忘れた頃にやって来る」(1922(大正12)年9月1日 44歳)と最初に唱えた「寺田寅彦※1」の警句です。寺田寅彦は俳句をも詠んでいたので「五・七・五定型」となっていますが、正確には季語が入っていないので古典語俳句や口語俳句の世界では俳句とはならない訳です。また「川柳」でもない。(短詩は共通でも「風刺・こっけい」が無いから)
3.しかし、定型でもない「無季自由律俳句」の世界から考察すれば、かの生涯を放浪(晩年)に生きた自由律俳人の「種田山頭火※2」の句のように「思ひつかれて帰る夜の大地震あり」(1922(大正11)年12月8日。2回にわたり島原半島地震 M6.5、M5.9)を経験したことを俳句に詠った無季俳句があります。
さらに翌年(1923(大正12)年9月1日)、山頭火は東京にいて、関東大震災で罹災し、かつ社会主義者の嫌疑をかけられて拘留されました。山頭火は大正末年には世間から離脱して出家し、「焼き捨てて日記の灰のこれだけか」、「しづけさは死ぬばかりの水がながれて」、「分け入つても分け入つても青い山」など、「自由律俳句」を詠うこととなった。
4.従って、寺田寅彦も山頭火の自由律俳句に影響を受けて「天災は忘れた頃にやって来る」と表現したのではないかと思料(私見)する。
5.けだし、当時の地震発生は30年~100年の周期で繰り返される事象と言われて来たが、最近の地震の発生は忘れるどころか日本全国のどこかで年に数回起きていて、1000年に一度、4~5000年に一度あるいは想定外の場所等と地震後に分析して発表されることが多くなっている。
6.思うに、山頭火のこの時代は、今のような情報が無く、また支援も無かったと思うと真に異国の地での孤独そのものであったと推察できます。しかし、山頭火独特のリズムで漂泊の旅あるいは在庵生活、自然・心情を切り取った句は、今でも人々を魅了して止まない自然科学の実践者そのものでしょう。
(写真左)光禅寺正面 (写真右)山頭火の句碑
仙台市青葉区上杉・天台宗 光禅寺の入口に「俳人種田山頭火が仙台の自由俳人 海藤抱(ほう)壺(こ)の病気見舞のため病床を訪ねたときの一句(逢へばしみじみ黙つてゐてもかつこうよ)と後年の一句(抱壷逝けるかよ水仙のしほるるごとく)の2句がある。
2024.1.12 撮影者 山家雪雄
<注釈>
※1 寺田 寅彦(てらだ とらひこ)
1878(明治11)年11月28日 東京都生まれ
1935(昭和10)年12月31日 死亡
日本の物理学者・随筆家・俳人・防災学者
東京大学大学院卒
(なお、寅彦は幼い頃に高知県に転居し、後に熊本第五高等学校に進学。夏目漱石や田丸卓郎らに学ぶ。よって高知県出身と記されているものもある。)
※2 種田 山頭火(たねだ さんとうか)
日本の無季・自由律俳句の俳人(山頭火とだけ呼ばれることが多い)
1882(明治15)年12月3日 山口県生まれ
1940(昭和15)年10月10日未明 松山の「一草庵」で死亡
1892(明治25)年 母フサ自死
1904(明治37)年 早稲田大学中退
1916(大正5)年 酒造場が破産して一家離散
1925(大正14)年 出家して翌年から行乞流転の旅に出る。
1936(昭和11)年6月に、仙台(来仙時の俳句が前記のとおり)、岩沼、石巻、鳴子、山形県鶴岡にも足を運んで俳句を詠まれている。
以上