<10年目一区切りに在らず凍の海>
Ⅰ【10年目一区切りに在らず凍の海】
コロナ禍の中で東日本大震災から10年目を迎えました。東日本大震災10年目の特徴は、四重苦と言っても過言ではありません。
①地震、②津波、③原発、④コロナ禍、復興としては「堤防」・「道路」、宅地造成等のハード面復旧。そして、コロナのワクチン開発の期待と不安。震災による売り上げ低迷と借入金増加による経営改善の道標が不透明などであるが、むしろコロナ禍の方が深刻な状況は地方へと移って来ている。
話を地震による津波の影響に戻すと、あの石巻市大川小学校を襲った津波の悲劇である。全校児童108名の約7割にあたる生徒のみで74名、先生を加えると84名が死亡、行方不明となった惨状である。
私は、国内の藤沢RI、マレーシア(プチョン)、ロータリークラブ他多数からの震災支援活動で女川町の「指ヶ浜」・「御前浜」へ漁網、船、軽トラック、フォークリフト、竹の養殖用の漁具等を国際ロータリーの一員として寄付・贈呈するため20回以上足を運んだ。車で走るコースは石巻市内から女川町経由が近いのだが、地震の影響で通れず、雄勝経由のため常に大川小学校の手前から曲がって行く。
だが、私は大川小学校へは必ず寄ってご焼香してから被災地へ入った。今でも車には、「お線香とチャッカマン」がある。
この地へ立つと背筋がキリッとなる。と同時に万葉集の歌人でもある「山上憶良(やまのうえのおくら)」の有名な歌が蘇る。
《銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに勝(まさ)れる宝子に及(し)かめやも》 は最も有名な歌の一つである(銀や金、玉が何になろうか子に及ぶ宝は無い)-と歌った。
「お父さんとお母さんの間に寝る」と言っていた「白玉」の様な子供が突然死する」憶良は、冷静さを取り乱して叫び、胸をたたいて嘆いた。そして憶良は、「これが世間に生きると言う事」と悟った。
あれから1330年近くたっても親が子を思う気持ちは変わらない。
大川小学校で津波の犠牲となった子供達のひとりひとりの我が子を突如失った親御さんの悲しみはいかばかりかと改めて思う。南西側40m先に斜面の緩やかな杉山があり、そこに避難誘導していれば津波による災害が防げた様に思えるからことさら心が痛む。
大川小学校の鎮魂の碑にお参りしていると関東からの大型バスでこの地に降りて、お参りしたあと数名で静寂に包まれている中、黙々とゴミ拾いや碑を清掃する中学生・高校生らのグループがいた。生きていたら、同世代と感じ取った。
<解説>
山上憶良(やまのうえのおくら)西暦660年奈良時代初期の貴族・歌人、80首の歌を残している。
悲しみは憶良に聞け(貧困・孤独・望郷ときわめて現代的な悲しみを歌っている。)
この頃の歌人(柿本人麻呂・山部赤人・大伴旅・家持等)の多くは「恋愛」を歌っているが憶良は家族も詠んでいる。